ジスロマック
総合武術・武道 武颯塾 東京本部のホームページ



武颯塾について

  
 
「武術」を通して「颯爽」と生きる自分づくりをする学び舎
  
 
「武術」を通して人生を「創造」する事を学ぶ学び舎

「無念・無想」の境地に少しでも近づけるよう修練する学び舎

「夢」「想い描いたこと」を実現する行動力を身につける学び舎

「武術」を通して他者と争わず物事に対処できる自分づくり、「無争」を学ぶ学び舎

他者との比較による無敵ではなく、
敵を作らない無敵の自分づくりをする学び舎「無相」

自分の人生において掛けがいのないもの学ぶ学び舎「無双」



修練大テーマ

  
 
闘技を超えた武術の体得



闘争の手段を追求し発展してきた武術・武道には、人間の能力を最大限に引き出す具体的な術が伝承されています。




そして、その術を実践することにより、人間の根源へと向かい


「人間とは何か?」


「人とは本来どうあるべきなのか?」


を認識するに至る道を包含しています。





従来の武術・武道は、闘技を磨き、武の道を追求することにより「道に達した人」、つまり、達人を輩出してきました。





しかし、武颯塾では、


「人間とは何か?」「人とは本来どうあるべきなのか?」


の追求に主眼をおいて修練していきます。




  
 
目的・目標と基本概念
  
 
基本理念

武颯塾が提唱する現代における武術の意味

武颯塾の修練による概念変革について

相対修練

修練の前提

感覚修練

感覚修練の段階



  
 
目的・目標と基本概念


武颯塾の修練は、練気武颯拳(以下「武颯拳」と称す)の根本概念である「自然の法則に適応する」ことを目的とします。




「人間の身体は自然の法則に適応したときに最大の機能を発揮する。ゆえに自然との調和をはかることを最終目的とする」





私たち人間は自然の一部です。


従って自然と調和したときに最大の機能を発揮します。





しかし、単に自然と調和するといっても具体性がなく、どのようにすれば自然と調和できるのかが分かりません。





そこで、武颯塾では、練気武颯拳(以下、武颯拳と称す)及び太極拳の修練において、自然との調和を図る具体的な方法として「自然の法則に適応する」ことを行います。





「自然」を漠然としたものとして捉えるのではなく、全てに共通し、誰もが認識できるものに焦点を絞ります。





また、自然の法則は、国、地域、人種などによる差がなく、地球上全てのものに均等に働いているものであり、誰もが共通に認識できるものです。





では、自然の法則とはどのようなものなのでしょうか?





宇宙には四大法則として以下の法則が存在することが分かっています。





「重力」「電磁気力」「大きな力」「小さな力」の四つです。





武颯塾では、まずこのうちの「重力」への適応を目指します。





「重力」は四大法則のうちの70%を占めると言われ、将来的には全ての法則が重力に
よって統一されるとする「大統一場理論」が提唱されることでもわかるように、宇宙に存
在する全てのものへ大きな影響を与えている法則です。





武颯塾では「重力」への適応を勁功修練として、「電磁気力」への適応を気功修練として
取り組みます。





重力に適応する修練を行うことで、基本概念である「自然の法則に適応する」ことを具体
的に体得していくのです。








  
 
基本理念


「他者との比較による強さではなく己に打ち克つ真の強さを求める」


武颯拳の基本概念が「自然の法則に適応する」ことである以上、当然、武颯塾の活動理
念は自然の法則に適応することに近づいていけるものである必要があります。




そこで、武颯塾では「他者との比較ではなく己に打ち克つ真の強さを求める」ことを基本
理念としています。





では、何故「他者との比較ではなく己に打ち克つ真の強さを求める」ことが「自然の法則
に適応する」ことに近づいて行くものなのでしょうか?





一般的に武術・武道は他者との闘争の方法を学ぶものとされています。つまり、優れた
闘争技術を持った者が優れているとされているのです。この発想は、闘争技術を後天的
につけていこうとすることから生じています。





しかし、古来より達人と称された人々は異口同音に自分の中の自然に触れ、それに従っ
ていればよいと説いています。





このことは、私たち人間が自然の一部であることを考えれば当然のことである言えるでし
ょう。





私たち人間が自然の一部であるならば、万人に共通して全ての能力は潜在しており、そ
れを使いこなすかどうかは、それを引き出すことができるかどうかにかかっているという
ことになります。





自然の法則に適応する修練は、まさしく、私たちに潜在している能力を引き出す修練な
のです。





また、古来より、道に達した人々は闘争の場から離れていきます。





これは武術・武道の極みが「争わない」ことであることを示していると考えられます。





つまり、闘うための技術である武術・武道は他者と闘わないこと、闘う必要がないことを
体得するためのものなのだと言い換えることができます。





自然は全てが調和しており、全てのものが連携しています。





そこに無用な争いは存在しません。
















道に達した人が、自然と調和した人であるならば、無用な争いを好むはずがありませ
ん。





このことも私たち人間が自然の一部であることが理解できればうなずけると思います。





しかし、私たち人間は知性を持ったがゆえに他者と無用の争いを引き起こします。





では、知性は悪いものなのでしょうか?





決してそうではないはずです。





私たち人間は、知性を持っているからこそ他者との共栄、共存ができるのだと思いま
す。





無用な争いもしますが、知性なくしては成し得ない共栄・共存が可能であること、この点
が他の動物と決定的に違うところではないでしょうか。





そして、他の動物と違った意識レベルを持っているからこそ、自然の法則に意図的に適
応することも可能なのだと思います。





この事実をもとに、先人たちが命がけで到達した境地に「理解」と「法則に委ねる」という
具体的な修練を通して近づいていくことが武颯塾の理念なのです。





自然への調和を邪魔するものは、自己中心的な「思い」や「考え」であり、無用な不安や
恐怖が争いを引き起こします。





この自己中心的な「思い」や「考え」を捨て、無用な不安や恐怖と真正面から向き合い、
それに打ち克っていくこと。これが武颯塾の基本理念なのです。




  
 
武颯塾が提唱する現代における武術の意味


如何に物騒な世の中になってきたとはいえ、現代は武術・武道が発展してきた時代のよ
うな、常に自らの身体が危険にさらされている時代とは違います。




しかし、自分自身のへの精神的なプレッシャーや身体的な外圧は、形を変えてストレス
や社会問題として身に降りかかってきています。





であるならば、このようなストレスや社会問題に対応できる自分づくりをすることが必要で
はないでしょうか。





その術こそが、武颯塾における武颯拳や太極拳の修練なのです。





様々なプレーシャーに対応できる自分づくりをするためには、対象を外に置くのではな
く、プレッシャーに負けそうになる自分、ストレスでくじけそうになる自分という、自分の内
面に向かう必要があります。





つまり、武颯塾の修練とは、言い方を変えれば、自己の内側に向かう修練であり、その
ことにおいては闘う対象は自分の外側にあるものではなく、己との闘いなのです。





このことからも、武颯塾における「強さ」とは他者との比較による「強さ」ではないことが、
おわかりいただけると思います。





他者との比較でない「強さ」の評価基準は常に己の中にあり、誤魔化さずに正直に自分
自身を見つめた時、「自分自身が自分自身に納得できた」と感じられれば達成に近づく
のです。





武颯塾では、緊張する自分や己を飾ろうとする自分、これらの自分と闘い、自分自身を
自然な本来あるべき姿に戻していくことが大切であると考えています。





そして、それを修練を通して具現化していくことが武颯塾の修練であり、その術としてこ
そ、現代における武術・武道の存在意義があると考えています。








  
 
武颯塾の修練による概念変革について


武颯塾の修練は、武颯拳・太極拳の双方において相手の力を吸収し転換すること(化
勁)から始まります。




そして、相手と一体化することへと進んでいきます。(武颯拳合気)





このことには物理的なことだけにとどまらず、私たちの概念を変革するという意味があり
ます。





相手の力を吸収するということは、相手の力が強ければ強いほど相手から受け取る力
が大きくなることを意味しています。





つまり、相手の力が強ければ強いほど自分が得られる力が強くなることになるのです。





相手が自分に力を与えてくれる存在であるならば、そして、そのことを修練を通して具体
的に体験・体感すればするほど、相手に対しての考え方、感じ方が変わってきます。





相手の力が強ければ強いほど自分にとって有利な状況が訪れることを体験を通して感
じることにより、「相手=敵」という発想は薄れてきます。





相手の力を吸収し転換することで、闘争の相手であるはずの敵が自分に力を与えてくれ
る存在でることを体験できるのです。





この体験が繰り返すことで、「相手=敵」という図式は崩れていくことになり、このことにお
ける概念が変革していくことになるのです。





上記のような考えのもとに修練するのと、そうでないのとでは、修練で体得する結果に大
きな差が生じてきます。





「相手=敵ではない」という発想が理論的にも精神的にも、理解・体得できたとき、相手
は自分を侵すものではなく、自分自身に力を与えてくれる存在になり、古来の達人が到
達した境地に近づけると信じています。





技法修練においては、合わせる対象が「自然の法則」であり、自分自身の勝手な考えや
こだわりが通じません。





自分勝手な考えやこだわりを捨てたときに技の完成度が上がることを数多く体験するこ
とは、自分自身の囚われを捨てることの具体的な身体感覚として知覚できます。





多くの社会問題が、個人個人の勝手な思いや考えに起因することを考えれば、自然の
法則に適応するという感覚修練が、社会問題の解決の糸口を握ることとなるはずです。





武術に伝わる如何に合理的に相手と闘争するかを学ぶ術も、現代に適応するようにしっ
かりとした目的や理念を持って修練することにより、相手との調和、協調を学ぶことに繋
がるはずです。





このことは、戦乱や刃傷沙汰が日常茶飯事の時代では難しかったと思いますし、その当
時の必要性は低かったのかもしれませんが、現代においては最も必要なことであり、現
代ならば体得可能なことであると考えます。





そして、武術修練が本当の意味で社会平和をもたらすことにつながると考えています。





闘争の手段として発展した武術は時代の変化とともにそのありようは変化するべきだと
思います。





武颯塾の修練は、命がけの武術修練により、相手の力は自分の力であり、相手との協
調、自然との調和が己の能力を最大限に引き出すことを体感・体得した古の達人が達し
た境地に具体的に近づいていこうとするものなのです。





単独で行う精神修養ではなく、武術修練というある種の危険や痛みを伴う中で得られる
体感・体験だからこそ、独りよがりになりづらく、即、日常に活かすことが可能であると考
えます。





また、相手との関係から自己を学ぶために自己のみならず相手を意識しなければならな
い武術だからこそ学べるものも多いのだと思います。




  
 
相対修練


武颯塾の修練は、そのほとんどが相対修練となります。




相対での修練は、独りよがりになるという弊害が少なく、直接的なプレッシャーに対して
の適応能力が向上します。





一人きりで、恵まれた環境によって得られた「脱力感覚」・「リラクゼーション」は、ちょっと
した外部刺激に対して過敏に反応し、感覚が失われてしまうことも少なくありません。





しかし、相対修練で得られた「脱力感覚」・「リラクゼーション」は、もともと外部刺激を受
けた状態から作り出すものなのです。





修得が難しい反面、プレッシャーに強く、即、日常に生かせるものとなるのです。





武颯塾では様々な修練に取り組みますが、それは自分の心の動きを知り、身体の感覚
を捉え、相手との関係を感じ、的確に対応できるようにするためのものです。





このことの必要性は道場内に限ったことではありません。





修練と日常を切り離さないことが最も重要だと考えています。




  
 
修練の前提


「脱力」




全ての修練は「脱力」することが基本になります。





「脱力」の必要性は様々なことから考えられます。





私たちの身体は70%が水分です。





身体を緊張させ、筋収縮を強めることは、身体を固体化することに繋がります。





身体の主たる成分が水分である以上、身体機能は「液体」、つまり、流体として使用した
時に合理的に発揮されます。





緊張した心身は様々な弊害を招くことは皆さん周知のとおりです。





では、以下に「脱力」の必要性について、簡単に記すことにします。




◆ 精神的作用として




精神的な緊張は「思考」や「感情」によって誘引されます。





そして、私たちは自分自身が作り出した緊張に振り回されています。





また、私たちは精神的な緊張が筋肉の無駄な収縮となって身体に現れることを体験的
に知っています。





古来より「心身一如」といわれ、心と身体が密接に関連していることは一般的に知られる
ところであり、この言葉は私たち日本人にはとても馴染みが深いものでもあります。





心と身体の関係については、近年では「バイオエナジェティクス」という名称で欧米各国で
も一般的に知られるようになってきました。





コロンビア大学のアイダ・ロルフ博士が考案した「ロルフィング」も、筋膜の緊張をほぐす
施術を行うことによって、精神的な緊張をも解き放すものとして知られています。








心の緊張を自らの心を使って取り除くことは非常に難しいことです。





しかし、身体の緊張を取り除くことは、それに比べて容易であるといえます。





心と身体が密接に関係しているのであれば、身体の緊張を取り除くことで、心の緊張を
解き放っていくことは可能なはずです。





この無用な身体の緊張を取り除くことがまさしく「脱力」なのです。





もともと身体とは自然なものです。





そこに無駄な緊張はありません。無用な身体の緊張を解き放ち、自然な状態に戻すこと
が、心の緊張を解き放つことにつながるのです。





「思考」や「感情」に振り回されないためには「脱力」が必要不可欠なものなのです。





前述した「ロルフィング」に代表されるように、昨今では、身体の緊張を取り除くことで、精
神を安定させるセラピーなども多く存在します。





このことは、心と身体の関係が世界的に注目され始めているという証になると思います。





しかし、大切なことは、第三者の手を借りるのではなく、自分自身の力で、自らの意志の
もとに無駄な緊張を取り除く術を体得することだと思います。





そのためには相対修練が有効であり、修練の場において自ら作り出す「脱力」は、即、
日常に活かせるものだと思います。




◆ 身体力学として


私たちの身体の運動部位の多くは第三種のテコによって構成されており、構造上、「動
き」に対しては得をしますが「力」に対しては損をすることが分かっています。




しかし、現在のスポーツバイオメカニクスをはじめとする運動力学では、この構造上の矛
盾については分かっているものの、「力」の発揮は筋肉の収縮によるものしかあり得ない
という発想から、この矛盾を解決する術を持っていません。





近年、話題になっている「初動負荷理論」も「力」の発揮を合理的な筋収縮に求めるもの
であり、筋力の矛盾を解決するものではありません。





しかし、古来から武術・武道にはこの矛盾を解決する技法が存在していました。





この技法は一般的でないため、また、体得に時間がかかるため、そして何よりも闘争手
段を敵に教えないという理由から表立っては伝えられてきませんでした。





しかし、中国武術では「勁」という言葉で、また、日本武道では「合気」(『合気』の場合は
多くの意味を含むのでこの限りではないが)という言葉などで表現されながら、一般的で
はないものの、その存在は知られていました。





武颯塾では、これらを「重み」と称し、様々な修練を通して体得していきます。





この「力」を体得するために絶対的に必要なのが「脱力」なのです。(「重み」、「勁」につ
いては、誌面の都合上割愛します。詳細は書籍等を参照にしてください)




◆ 身体機能として




私たちの身体はほとんどが筋肉に覆われています。





上記のとおり、筋肉は運動器官であるとともに、力を発揮する器官であると考えることが
一般的です。





しかし、身体生理学上では、筋肉の主たる役割は「感覚器官」であるとされています。





身体の緻密で繊細な動きの多くは、筋肉を通して情報収集されて脳に送られ分析され、
その時に必要な運動として発揮されるのです。





感覚器官として筋肉を有効に働かせるためには、無駄な筋収縮をしていないことが極め
て重要です。





無駄な筋収縮が多いということは、筋肉の感覚器官としての機能を阻害してしまうからで
す。





緊張すると感覚が鈍くなるということは誰もが体験的に理解していると思いますので、こ
のことを理解することはさほど難しいことではないと思います。





※「脱力」により、感覚器官としての筋肉の機能を十分に発揮することで、相手と離れた
状態から相手の心身の動きを察知することが可能となります。これを「聴勁」修練といい
ます。





このように、脱力は精神的にも身体力学的にも、また、身体機能的にも最も重要なこと
なのです。




◆ 人格の陶冶




古来より、武術は人格を陶冶するものとされてきましたが、なかなか具体的に人格の陶
冶に繋がらなかったのは、ひとえに「脱力」という修練に取り組む機会が少なかったから
だと考えられます。





「脱力」による力の発揮は体得までに少し時間がかかるため、また、自分自身の心理面
と向き合う必要性があるため、どうしても手っ取り早く体得可能な「筋力」発想に傾倒する
ことも理解できます。





しかし、様々なストレスや社会問題により、自分自身に目を向けざるを得なくなってきて
いる現代だからこそ、じっくりと脱力修練に取り組むことが重要だと思います。





「脱力」し、自然の法則に適応したとき、自然に適応した「思考」や「感情」を認識すること
ができるはずです。





そして、自然な感覚、自然な思考、自然な感情は誰もが求めて止まないものなのではな
いでしょうか。





自分自身を少しでも理想の自分に近づけるためにも、本来、自然である身体を通し、
「脱力」を通して自分自身の自然の姿を精神的にも肉体的にも認識することが必要だと
思います。





武颯塾では、概念的な意味ではなく、武颯拳・太極拳の修練を通して、具体的な段階を
踏みながら人格の陶冶を踏まえた修練に取り組んでいきたいと考えています。







  
 
感覚修練


「脱力」によって、自己の能力が開放されることは、理解いただけたと思います。




武颯塾では、「脱力」によって鋭敏になった感覚を以下の三つの感覚に焦点を絞り、具
体的に修練を進めていく。








◆ 重力感覚





まず第一段階として、重力に適応した身体運動の体得から始めます。





「重力」は、この宇宙で最大の力であり、地球上に生存する限り、誰にでも均等に働いて
いる、宇宙の法則です。





しかし、あまりにも当たり前に働いているために、私たちは自分自身が重力の影響を強
く受けていることを知覚することができません。





武颯塾で修得する技は、重力に適応するように組み立てられています。





重力には自分自身の勝手な思いが通用しません(当たり前のことですが)。





重力にうまく適応できれば、技は上手く掛かり、重力に上手く適応できていなければ、技
は上手く掛かりません。





技の結果から、自分自身が重力に適応する方向に進んでいるのか、そうでないのかが
客観的に判断でき、言い訳は一切通用しません。





このように、自分自身に当たり前過ぎるくらい当たり前に働いているものを感じることで、
自分自身の身体感覚は磨かれていきます。





水の中に棲む魚が、自分が濡れていることに気づかないように、あまりにも当たり前に
存在するものは、初段階においては、感覚として捉えづらいのです。





また、重力に適応した身体感覚にいるときは、重力に適応した


精神状態にいることができることを体験します。





経験がない方に説明するのは非常に難しいことなのですが、肩の力や胸の力を抜いた
時に自分の身体の中に流れるベクトルを感じられるようになります。





そして、そのベクトルに動きを合わせた時に、ぶつかりのない、そして、自分自身に矛盾
のない精神状態を感じるのです。





心と身体は密接に係りあっています。





身体が安定した状態の時は、精神状態も安定しているのです。





「重力」に適応している時の身体はまさしく「不動体」であり、そこに宿る精神は「不動心」
となるのです。





武颯塾では「不動体・不動心」を養成する修練を「養体・養心」と称して、全ての修練の基
本に位置づけています。








◆ 流体感覚





 また、人体は約70%が水分でできています。





水の詰まった革袋の中に、骨が浮くようにして入っているようなものなのです。





人間の身体は見た目はどうであれ、固体ではなく流体なのです。





脱力の必要性の項でも述べましたが、身体が流体であるならば、身体運動は固体的で
はなく、流体的に行われることが自然です。





固体的に使うということは筋肉を固め、つまり、筋収縮を強めて、力んだ状態で運動する
ことです。





身体を流体として機能させるには、心身の緊張を極力取り除くことが大切です。





自分の身体が流体である感覚、そして、身体を流体的に使う感覚、これが、武颯塾の修
練で焦点を絞る二つ目の感覚である「流体感覚」です。





武術修練者でなくても、一流のスポーツ選手や楽器演奏者なども、名のある方々は、
皆、無駄な力が抜け、流体的に動いています。





これは、私たちの身体が本来流体であるからなのです。








流体として動く動き方には一定の法則があります。





腕の上げ下げ、歩法、etc…、全てに法則があるのです。





それを様々な形で体得していくのが武颯塾の修練です。








「流体感覚」は「重力感覚」同様、私たちが自然に回帰していく感覚であり、人工物である
自分勝手から離れていく大きなキーワードになります。





私たちは、無用な緊張をしているため、自分の身体運動を流体として行うことが非常に
難しくなっています。





流体を流体として感じる感覚を追っていくことで、自分自身の感覚は研ぎ澄まされ、身体
機能も向上していくのです。








◆ 中心感覚





さらに、「中心感覚」に焦点を絞って修練していきます。





地球上の物体は全て重心の位置が定まり、中心がしっかり保たれることで安定します。





それは、人間の身体においても同様です。





自分の中心がしっかりすることで、精神的にも肉体的にも安定し、自分の持てる能力を
いかんなく発揮できるのです。





これは、身体運動においても同様で、中心の安定なくして、安定した運動は有り得ませ
ん。





安定した身体運動は、安定した日常生活をもたらします。





古来より「心身一如」「剣禅一如」と言われるように、心と身体は密接に関係しています。





心を心で安定させることは非常に難しいことですが、身体を使って心を安定させること
は、具体性があり、対象物もはっきりしているので非常に取り組みやすものとなります。




  
 
感覚修練の段階


上記の三つの感覚に焦点を絞った修練を武颯塾では内功修練と呼びます。内功修練に
は三段階あり、三つの感覚修練は、第一段階の勁功修練を効率よく進めることに効果
的です。それでは、以下に内功修練を順を追って簡単に説明することにいたします。





◆ 第一段階




勁功修練(勁道、「重み」伝達修練)



上述した三つの感覚を中心に合理的な身体運動および合理的な力(筋力ではない)の
発揮を体得するための修練段階。




この段階においては重力に適応することを目的とする。








勁功修練は、主に重力に焦点を絞った感覚修練であると言えます。





重力は地面に向かって垂直に地球上のすべての物を引き付けています。





つまり、常に真下に向かってベクトルを生じているのです。





私たちの身体は「固体」、「液体」、「気体」という物質の三要素から成り立っていますが、
重力の影響を強く受けるのは、固体的要素と液体的要素です。





身体に均等に働く重力を知覚することによって、自分自身の身体をより正確に認識する
ことができます。





そして、正確に認識された身体を合理的に機能させることで、重力に適応した「合理的
身体運動」と「合理的な力の発揮」を体得するのです。





これが、武颯塾における勁功修練となります。





また、私たちの身体は70%が水分であり、私たちの身体の主体は流体であることは既
に述べました。





重力の方向を正確に認識するためには、自己の身体内に生じる無用なベクトル、つま
り、筋収縮によって生じるベクトルを排除する必要があります。





筋収縮は、上腕二頭筋を例にとって考えれば、収縮するときは、筋肉の中心部に向かっ
て両端からベクトルが生じます。





つまり、自己の身体に緊張部位が多ければ多いほど、肉体内に多くのベクトルを生じる
こととなります。





このような状態では、決して、正確な重力の方向は知覚できません。





正確な重力の方向を知覚するためには、脱力することが不可欠な要素であり、脱力が
結果として、筋収縮による自己の身体の固体化を解放し、本来の流体に戻すことにも繋
がるのです。







武颯塾修練生は現在、勁功修練に取り組んでいるところですが、

以下は参考までに、第二段階・第三段階を記しておきます。


第二段階・第三段階ともに口伝・口訣になります。



◆ 第二段階




気功修練(気感修練、運気修練)



勁功修練で十分に心身の脱力が図れたと判断された場合に、気功修練へと進みます。
この段階では電磁気力を扱います。




ここで修練する気功は武術気功であり、保健気功や医療気功でありません。





武術として使える気功を学ぶために、站椿、運気修練などを行います。








気功修練は、「気」、つまりエネルギーに焦点を絞った修練です。








勁功修練を深めることにより、身体の「脱力」が深まると、さらに微細な感覚を捉えやすく
なります。





気功は身体内の気(内気)の周流を活性化し、外界の気(外気)との流通を目的としてい
ます。





つまり、勁功修練が重力に適応すること目的としていることに対し、気功修練は身体内
外のエネルギーと調和することを目的としています。





「気」は重力のように明確な方向を持っているわけではないので、勁功修練で磨かれた
鋭敏な感覚を用いて行うことが非常に重要であり、効果的なのです。





また、最近では「気功」という言葉が一般的になっており、多くの方が「気功」という言葉を
口にするようになりました。





しかし、「気功」には大きく分けて三つの種類があることを知る人は多くありません。





このため「気功」という言葉を使う時に以下に述べる三つを混同して使っているパターン
が多いように思います。





このことを避けるために三つの分類について簡単に記しておきます。








1、「医療気功」・・・これは一時期話題になった気功麻酔などが属するものです。





2、「保健気功」・・・多くの方が気功といった場合、この「保健気功」をイメージするのでは
ないかと思います。





「保健気功」とは読んで字の如く、健康法としての気功法です。





3、「武術気功」・・・「医療気功」や「保健気功」の実践者が武術的な力を発揮できないの
は、同じ気功法といっても種類が違うからです。





武術として「気」を扱う場合、その前提として「勁」の体得が必要となります。





「勁功」の修練を積んでおらず、「勁」(武颯拳でいう「重み」)が通っていなければ、武術と
しての「気」は使えないのです。





このことが理解されていないために多くの勘違いを生んでいるように思います。





勁力に気の力を加えて使うための修練です。




◆ 第三段階




意功修練(勁功修練、気功修練を経てから行う)



意功修練は、「意識」というとても言葉では説明できない物に焦点を絞った修練です。




それはエネルギーよりもさらに微細なものだと思われますし、感覚化しづらいものだと想
像できます。





武颯塾指導部も「意功修練」の入り口にいますので、詳細を説明することはできません
が、私たちの知る範囲内で述べるとするならば、「意功」は、人間の意識の持ち方や


心の在り方といったものを具体的に認識する方向性をもったものだと思われます。





太極拳の基本的、かつ、もっとも特徴的な修練である推手も、一般的には、相手の力の
ベクトルを感じ取るものであると理解されていますが、相手から発せられるエネルギーや
エネルギー体としての相手自身、また、相手の意識を感じることに繋がっていることは、
指導を受けた経験上、十分に理解できます。





推手は、最初は相手と触れ合ったところから始める修練ですが、やがてそれは相手と離
れた状態でも相手を感じることへと繋がっていきます。





相手と離れた状態で相手を感じることができるようになるということは、考え方を変えれ
ば、その対象が相手という「人間」だけでなく、それはたとえ「山」であっても「川」であって
も、そして、「宇宙」であっても可能だということになります。





相手との一体化も、宇宙との一体化も、この「意功」の段階に入って初めて具体性を持っ
てくるものだと思います。





これは最近の言い方をすれば「ワンネス」に具体的に近づいて行く修練であるとも言えま
す。




以上のことから理解いただけると思いますが、内功修練は人間の知覚力を向上させ、最
終的には私たちを存在させる根源その物までもを知覚・認識させるものなのです。




武颯塾では少しでも私たち人間の根源に近づいていけるよう修練を組み立てています。







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